草稿というものについてのメモ

最近亡くなった哲学者、ジャック・デリダ(といってももう昨年のことだが。とはいえ、大阪の旭屋書店ではいまだにデリダ追悼コーナーみたいなのがあったような気がする)。日本語訳をちょっとずつ読むくらいしかしていないのだけど、一般に彼はものすごい著作の数で知られる。また、彼はフッサールハイデガーに影響を受けていることでもまた知られている。フッサールハイデガーはその死後全集が次々と出ていて、未だ完結していない。デリダに、そのような草稿はあるのだろうか?デリダの書いた多くの著作に対するフッサールハイデガーが残した草稿ないし遺稿の数々。さらに言えばハイデガーは自分の死期を感じ取るかのように全集を自分の手で始めたのに対し、フッサールは速記法を使ってつまりは自分およびそのごく近い周辺のためだけに草稿を書いた(実際、ベルギーにフッサールアルヒーフができたときには速記を解読できるのは助手であったフィンクとランドグレーべだけだったらしい)。

また、ハイデガーの関知が未だ話題になるナチスによるもう一つの文庫もまた一人の天才と優秀な助手がいた(ヴァールブルクとザクスル)。草稿、遺稿というとその人個人を想像してしまうが、あらためて見直してみると草稿は限られた人を必要とするシステムになっている。デリダが時として閉鎖的にも見られるその文体にもかかわらず、かぎられた人を必要とするシステムになっているのかどうか。

テクスト論と草稿研究を、後者がプライバシーを暴いているようだとして対比している石原千秋さんの書評(『Intercommunication』,No.47所収)。しかし同時に草稿研究がプライバシーを守っていたこともあった。ごく近い、限られた人を必要とするがゆえに起きた、編集という問題(ニーチェウィトゲンシュタイン)。

ブログのオン書きに対する微妙な意見のズレ(『ユリイカ』ブログ作法の巻、それにともなう各自のブログでの「私的後書き」)。コンピュータの時代、草稿はありうるのか(これはデリダが『パピエ・マシン』で示唆しているようにも思われる)。