『中島らも烈伝』鈴木創士、河出書房新社、2005。ISBN:430901688X。

大体のところは昨日書いた通りなんだけれども、書き忘れていたことがあったので。この本には鈴木さんの初訳書であるエドモン・ジャベスの『問いの書』ISBN:4891762209んが書いた書評が載っている。そのなかで印象に残った一節。

エドモン・ジャベスは、自身がユダヤ人であること、世界の中で家なき民であることを、たぶんレンズのような装置に転換した人なのではないか。彼はそのレンズによる光と闇の収束を使って、人間の「生」と「死」を一点に結節させる高みをのぞいているようだ。(p135)
それに対する鈴木さんのコメント、
そんな装置のようなレンズを君はいつも磨いていたのだろうか。……(p137)
これを読んだとき、どうしても僕の頭の中ではユダヤ人であることすら破棄されたある人、家なき民の中の家なき民である人のことを考えてしまう。何かで読んだ別の本のなかではそれすらも逸話めいている話らしいが、ひどく象徴的だ。
また、この書評をらもさんが書いたという事実は、またそれなりの意味を持ってくる。一点に収束された光はそこからまた発散する。先に書いた家なき民の中の家なき民は幾何学的な方法で倫理を収束させることで、新たな哲学の光を発散させた。しかし、そのままでは光は光源の像とは倒立した像を描くはずである。これはらもさんがエッセイや小説でよく書く、蚊の目玉の話に他ならない。蚊にとっては、上昇とは下降のことでしかないのかもしれないのだ。そして、その倒立した像を洞窟の中で見ているのだとしたら…。そう、倫理学を書いたということの意味とは、実はこの時点において、ある種の哲学史的円環を作っていることにあるのかもしれないのだ。
まあ、ここらへんは大して読んでない人の言う妄想の域を出ないものではあるのだが、ただ、こういう流れで物事を妄想できるとしたら、それはそれで楽しい。