年末年始に

読んだものは
1.『酒気帯び車椅子』中島らも著、集英社、2004。ISBN:4087747352
2.『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール菊地成孔著、小学館、2004。ISBN:4093875189

3.「暴力と形而上学」、ジャック・デリダエクリチュールと差異』所収、若桑他訳、法政大学出版局、1977。ISBN:4588000799

1、2は勢いで読ませる。中島らもさんの本はテンポいい。登場人物の藤谷文という名前は明らかに藤谷文子さんがモデルなので、その雰囲気で読んでしまう(僕としては『見参アルチュン』に出てた人、っていう印象が強くはあるんだけど)。菊地さんの本はその精密に作られた虚構がいい。ちなみに1と2は一緒に買って一気に読んだということのほかに、どうしても『SIREN』に結び付けてしまいながら読んでしまったことがその共通点か(1は「津山三十人殺し」について、2はその虚構の中に位置づけられた奇妙な時間表記、そして意図的な時系列のかく乱について)。
3は勢いとは逆にネチネチと読む。再読なのだが、レヴィナスの議論を逐一追っているのが今度はよくわかった。徹底してる。重要だと考えているからこそこれだけ執拗に議論を追っかけ、ひっくり返している。この倒錯感がたまらない。


で、映画としては
『エイリアンVSプレデター』を観る。
少なくとも二重の観点から見ることが必要であろう。
1.徹底した駄作として見る点。
2.他者同士の「第三者」という観点を入れた分析。
1はストーリーが中途半端なことに尽きる。まるで戦うという行為を正当化するためだけにつけられたストーリー。だったら戦う行為そのものから始めろよ、とか思うのだけれど、これはこの中途半端なストーリーこそが必要とされているのだろうと思う。そこで「準備運動」することまでが計算され、そうしなければならないという何かルールがあるみたいだ。
2は「〜VS…」という形そのものがどうして出てきたか(ネタがつきた、という理由以外に)を
考えることが必要ではないかということだ。エイリアンは子どもを生むことに関する恐怖を潜在的に現している、と内田樹さんは書いていたと思うけど、それだけでない、他者同士の視点というか、第三者がめまぐるしく変わる必要があったのではないか(ここらへん露骨に『アデュー』のパラ読みの影響がありますね、笑)。