ユリイカ

二点だけ。
一点目はドゥルーズのベーコン論(対談者の2人はフランス文学者でもある。多少フランス哲学をかじっていた僕にはここも嬉しい)を呼び水にして話す「身体」「肉体」「肉」の話。「身体」と訳されるcorpsは肉ではない。元(現?)ゲーマーの僕の記憶で言えばコープスというのはゾンビ系の敵の名前だった(ロマンシングサガ2)。つまりゾンビは身体としての怪物であり、僕たちが死体を目にした「肉」の怖さではない。完全に「肉」化した(小泉義之さん、永井均さんの言葉を借りれば「死体」化した)ものがなぜあんなに力を持つのかということ。あのグレアム・チャップマンさえもが「うわあああ」となった事実(『正伝』77ページ)、父が叔父を見てそこではじめて泣いたという事実、「見てしまった」人から聞いた生々しさ(←ものすごい皮肉な形容詞!)、「〜が亡くなったなんて信じられない、お葬式には絶対行って冥福を祈りたい」という言葉を読んで感じた反感。
また、「身体」としてコミュニケートするものが「肉」になるのではなく、そこに連続性があるからこそ「肉」には力が宿るし、らもさんはその連続したものとしての「身体-肉体-肉」を愛したということ(表紙の写真はまさにそう、「ぶら下がっている」)。
二点目は最後の矛盾しないということ(70ページ)。僕は同じことをらもさんの「女たち」に感じている(鈴木創士さんだけに?)。『らも 中島らもとの三十五年』を立ち読み(なので、実は根本的にこのことについて書くことは不謹慎なのだが)したときだ。この本はらもさんの奥さんである中島美代子さんが書いているのだけれど、途中美代子さんとはまったく性質の違う女性であるわかぎゑふさんについての描写がある。美代子さんの立場からすれば当然わかぎさんのらもさんに対する態度には異論もあるし、らもさんも最後のほうでは劇団を離れているので一読(←立ち読みのクセに)すれば美代子さんの言い分には一理あるものだとも思えてくる。だけど、僕はこの本を閉じて思ったのは(「わかってる」「男の身勝手」by GREEDY Bな理屈で言えば)、らもさんは幸せだったんじゃないかということでしかなかった。ユリイカがキーワードにもしている「バッド・チューニング」ならもさんに対してユニゾンする美代子さん、リエゾンしてひっぱろうとするゑふさんとでも言えばいいのだろうか。もう一人の「バッド・チューニング」な人(本人いわく「はみ出しもの」)である森毅さんの言葉を引いておく。ちなみにこういうことを言い切れるところが森さんのすごいところだと思う。あと蛇足だけど、ゑふさんは歌舞伎かなんかのつながりで森さんと知り合っててエッセイを書いてたような気がする(ムカデのような蛇足として、河合隼雄さんとも対談してたし)。

「戦前戦中も、「Xのために粉骨砕身」という人がおってね。でもそういう人はいてくれんと困るわけ。そういう人がいろんなものの機動力になったりしてんのよ。だけど、一方で僕みたいに白けている者もおった方がええのね。「Xのために粉骨砕身」ていう人は、「Xイコール何とか」っていうのが基本パターンで、その人にとってはXが何であれ、大した問題ちゃうの。戦争中お国のために粉骨砕身した人は、戦後もいろんなことのために粉骨砕身してたんや。それは悪いんじゃないのよ、そういう人は必ずいるもんなのよ。」
立花隆ゼミによる「二十歳のころ」より、webアドレス:http://www.sakamura-lab.org/tachibana/hatachi/mori.html

バッド・チューニングな人であったはずなのに「いろんなものの機動力」になることができたのはゑふさんの力だったし、「白けている」ところは美代子さんが支えた。普通人はどっちかにしかなれないと思うんだけどらもさんは「女たち」の力でどっちにも慣れている、それは単純にずるいと思ったし、うらやましいと思ったし、すごいことだと思う。

僕がずっと言いたかったこと、「DECO-CHIN」(『君はフィクション』収録)と「翼と性器」(『人体模型の夜』収録)の共通性について指摘している文章。やっぱり同じところを見てた人はいたんだと思うとちょっとうれしい。けれども、安藤さんは似ているという段階の観察にとどめ、そこから別の展開をしている。僕はやっぱりこの二つの間では役割が反転しているということが大事なんじゃないかと思う。もちろん、安易にあっちからこっち、と言ってしまうことはしてはいけない(それでは最初の討議の「バッド・チューニング」の含意が取り逃がされてしまう)。けれども、そこを取り逃がしてはいけないように思う。「器官なき身体」という概念が僕の手に余っているのかもしれない。

そしてサラッと読んだだけの感想はここまでにしなければならない。こういうことを書いている都合上ユリイカをちらちら見ているのだが、「全ての聖夜の鎖」が目に入ってきて、その文章の美しさ(僕に美しさがわかるのか?)を、このままでは、少しずつしか味わえない。はやく書き終えて、アップして、掌編三編を読まないと。