『今こそマルクスを読み返す』廣松渉、講談社現代新書、2000。

連休中、実家にあったのを持って帰ってきたもの。何となく読み始めたのだが、面白かった。廣松さんの文体を「ハードコア」「ヘビメタ」と評したのは内田樹さんだったが、僕なりに言い直すとすれば非常に形式的に思えた。ひたすら問題を形式化し、計算していく。かつて小阪修平さんが廣松さんにインタビューしたときや、僕の先生が廣松さんから聞いたというときに知った廣松さんのものすごい勉強量はその賜物ともいえる。しかしそこで少なくとも二点、誤解をしてはいけないと思う。一つは形式化、計算を行っているのは単なるコンピュータではなく、あくまでそのコンピュータのキーボードを文句いいながら叩き続ける人だ。本書でも「甘すぎる、とおっしゃるでしょうか」(p266)、「余りにもユートピア的な?そうかもしれません」(p268)と自分のいきすぎた部分にツッコミを入れることを忘れてはいない。もう一点は形式化したほうがよくわかることもあるという単純なことだ。僕は青木雄二さんのマルクスについての文章を読んだことがあるけど、今回廣松さんの本を読んで、青木さんが言うところの「資本主義社会は金持ちがどんどん得をするようにできている」ということがようやくわかった。青木さんの話は直接的で、言い換えれば中身しかないのだが、入れる箱がなければ理解がまとまらないということがよくわかった。ただ、青木さんのもう一つの主張「教育では哲学、しかも観念論ではなく唯物論を教えなければいけない」ということについてはちょっと廣松さんの話では違うんじゃないかと思う。この世界にはモノしかないのではなく、モノでないものもモノのように見てしまうというところ(物象化論?)が大事なような気がする。そしてそれはなぜ人は経験できないことを経験をもとに考えてしまうのかというカントの問題意識をある意味受け継いだものだ(しかし、そうだとするならばドイツ哲学は人間がいい加減なものだということを明らかにしてきた哲学、とも言えるわけで面白い)。
哲学、ということで言えば本書は哲学的な説明が大きいと思う。哲学的な説明、といっても難解で詩的ばもの、というわけではなく(とはいいつつも本書の場合それも当てはまるんだけど…)いわゆる冷戦終結社会主義の破綻という現実、経験的事実が論拠になっていないということだ。そのため、読むほうも経験的事実をもとに批判的読解をするということができない。だからこそ面白い部分がいくつかある。さっきの金持ちがどんどん儲かるということは廣松さんでは「時間」を考えないといけなかったり、急進的な革命に対して否定命題は否定していない命題をもとにしている、ということを問題にして論じたりしているため、もう一度考えてみることができる本になっている。