もう少しだけ、省察あるいは告白を

前回日記、二次会話の続き。前に書いたのは現在の話ではあったが、当然昔話も多少した。今回はその昔話と思い出したもう一つの現在の話について。

昔話といっても、互いの考え方に影響されているところがあるということについてだった。同じ席で「何でも自分の考えにひきつけてしまう」と言ったその同一人物からこういう言葉を聞くことができるとは思わなかったが(そこまで言ってもらえるのは率直に光栄だが、過大評価ではないかとも思う)。少し昔話になるが、書いておこうと思う。

僕も当然のことながら当時一緒に学んだ友人たちからは影響を受けた。自分に関連することにひきつけてのみしか考えていないような人ばっかりだったが(僕のは単に自分勝手なだけだったが)、それはどんな問題を提示してもそこに居合わせた人の数だけの解が提示され、同時にその複数の解が起点となり一気に検討(という名の議論)が始まっていくという、面白い場所であったと思う。そこで僕が影響を受けたことというのは自分と歴史、それぞれについての考え方の修正であったように思う。今でも僕は内省的に物事を考えるほうだと思うし(というより閉じこもってしまいかねない)、今までの歴史を踏まえたうえで未来を考えようとするほうだと思う(これまた下手すれば過去に拘泥しかねない。この日記が既にそうだが)。平たく言えば僕の考え方には保守的な傾向があり、よくツッコまれていた(そして今でも多分この考え方は間違っていると思われていると思う)。ただ、その中で自分にも歴史にもフィクショナルな部分があるということについて少しずつ受け入れることはできたように思う。ただ、そのフィクションがなぜ必要なのか、またどのように作られているのかということに関してはおそらく現在のアプローチを変えることは今のところないだろうけど。

また、まだ4年前のこととはいえそのときに特有の空気というものがあり、その同じ空気を共有していたということもまたあると思う。具体的なものを一つあげるとすればそれはサイエンス・ウォーズでなかったかと僕は思う。金森修さんによる紹介や、『「知」の欺瞞』の翻訳によって一般化したこの事件は科学を使ってそれを超えるように見せていた一部の哲学は、その科学を間違って使い、結果その部分については科学を誤解させ、あるいは自分の考えを煙に巻いて紹介しているだけだというものだった(その前フリとして当事者の一人であるソーカルは適当に科学用語を撒き散らしたデタラメな論文をそういった人文科学の論文誌に査読させ通している)。これは経験科学から学びつつ自分の考えを展開しなければならないと考え、そしてそのお手本としてまさにそういった書物を読んでいた人たちには真剣に反省を迫るものであったと思う。当時、すでにもっとズブズブに深く本を読んでいたのであればとりあえずの弁明や反論はできたとも思うが、そこまでは読んでいないという浅薄さもそれに拍車をかけたと思う。ただ、この衝撃がマイナスになったとは思わない。おそらく一連の事件を一番バカ正直に受け止めることになったんだという空気が、共有していた空気だったと思う。この空気(この例え自体、つかみにくいものだというイメージがあるが)を共有できた、その空気を吸って生活できたのは、先に書いた経験科学に学ばなければいけないという学校の空気もまたあったからだろうと思う。同時に、科学に学んで哲学を学ぶということはどちらかを片手間にするのではなくて、専門分野をもちつつも単純に二倍勉強しなければならないという単純かつ困難な事実を、前回の日記で書いた先生方が身をもって示していたこともあるように思う。僕は全然そういうことはできていないが、こういった(ように考えたということも含む)ことが印象に残っているということは、やっぱりちょっとは影響を受けているんだと思う。

で、現在の二次会時の話は戻る。前回書き忘れていたけど、学際性ということについて友人から熱く語られた(話によると別の人もこの話題で語られたらしいので、相当今問題に思っているのだろう)。僕なりに要約すると哲学は他の科学と対峙したときに概念整理という点では確かに役に立つが、哲学自身が他の科学から学び、哲学として何らかの結果を出さなければいけないし、今そうなっているとはとても思えないという問題提起だった(間違っていないよね?)。

この問題についてメモ。一つは概念整理で何がいけないの?という立場を考えなければいけないということだ。一つは哲学における諦念というか、哲学にそこまでの権限があるか、それこそサイエンス・ウォーズを踏まえるのであるならば、哲学の仕事は概念整理にこそあるのではないかということである(ローティなんかこういう考え方なような気がする)。いかにも控えめな考え方だけど、実はもう一つの考え方がある。それは概念整理は単に並べることではなく、実は旧来の立場にぎゅうぎゅうにおしこめる(そして爆発させる)ことなのかもしれないということだ。

また、哲学は科学ではない(少なくとも概念整理ができるという意味において、リスクを負うが面白いのは形而上学的であるという意味において)とするならば、科学を完全に理解した哲学が、科学で語れない新たな領域を担うという困難を背負うことはありうる。そこで間違いを恐れるべきではない、とも思う。

さらに、ある一つの科学で学んだことを、別の問題に移して考えられるということについて、哲学という分野はアドバンテージがあるということも付け加えておこうと思う。もしかしたらその意味で哲学は学際性に貢献することになるのかもしれないからだ。

…しかし、問題は変奏されてはいるものの、同じことを考えているのだと思ったし、多少違った意見を持ちつつも話としては理解できるということに、同じ空気の元で影響があった者同士なのだということを改めて痛感した。