中島らもさんの雑誌掲載分を取りまとめた

が発売されたので読む。前者は最後の作品としてところどころ(例えば鈴木創士さんの『中島らも烈伝』、pp.159-161)には書かれていた「DECO-CHIN」が、後者にはこれまでエッセイや小説で断片的には書かれていた笑いについての評論「笑う門には」が収録されていたので買った。

第一印象は「面白い」ということだったけど、第二印象としては「これは難しい」ということだった。別に読みにくいということではない。大体半日くらいで両方とも読める。難しいのは最後にらもさんはどこにいたのかというその位置の見極め方だ(階段にいたということは知ってますけどね、ええ)。
それはある程度らもさんの作品を読んだ人であればどこかで見たことある、という既読感を今回も味わうことになる。今僕がわかってる範囲でも、例えば「DECO-CHIN」は『人体模型の夜』の最終話と比較することが十分に可能だし、「ああ/あああ」に至っては「君はフィクション」の「香織/詩織」だ。だから今回のトランプのような表紙は裏表紙とともに「二対」あるのだ。また、「笑う門には」では彼の笑いの立脚点は以前ホッブズボードレール的なもの(本人はマルセル・パニョルだと書いている、p54)である「笑いとは差別である」という考え方にあり、たしかに「ネタが干物」で「つまらない」、「整合性を求める」「哲学者」のベルクソンには触れていない(どこかの対談でははっきりとベルクソンの笑いの理論を批判してたと思う)。

ざっと読むとそこだけに目がいってしまい、これまで書いたことを(それを面白く読ませる実力はもちろんあるんだけど)まとめただけじゃないかということになってしまう。けれど一読した中にはそうやって比較することでわかる何となくこれまでと違うらもさんが見えてきたりするのだ。だから難しい。少なくともその変化はセンセーショナルなものではない。で、おそらくわかっちゃうひとにはわかっちゃうのだろう。僕はというと、まだ理解できていないし、そのため言語化できていない。けれども、さっき書いた観点から説明はしてみたいので書けたら書くかもしれない。たぶんその文章はつまらないものになってしまうだろうけど。

あと、個人的には連載評論の最初に「モンティ・パイソン」が使われていた(「村のバカ」は吹き替え版か?僕の見たスケッチと若干違っている。あと言及されているのは「シリー・ウォーク」。『モンティ・パイソン自伝』によるとジョン・クリーズ自身はまったくこのスケッチの持つ差別構造自体にはそれほど気にしてはおらず、BBCラジオ時代の上司からの指摘によって驚いたとのこと。同書p197)。僕はいろいろしながら、それらが結局変につながってくるように動くしかないのだろうか。ちょっと手の上で遊んでいる孫悟空な気分。

(そういえばモンティ・パイソン関係の書籍も中島らも関係の書籍も白夜書房から出てる。白夜書房と聞くとすぐに僕の頭の中には西原理恵子が出てきてしまうが、まあそれはそれとして白夜書房には感謝しないといけない。)