ビオスとゾーエー

金森修さんと小泉義之さんの対談(「いのち、ゾーエーとビオスの狭間で」『談』No.74所収)を読んで少し考える。この二人の違いを知っておくと(そしてその違いが対談で確かめられたことをあわせて考えると)二人の文章が微妙に対談への間接的な応答を含んでいる(まあ大体哲学者と言うものは同じようなことをくどくど考えるものだけど。ただし同じことをくどくど考えられなければいけないのだけれど)と思う。『病いの哲学』は徹底して死の哲学を退けるという立場で書かれている。僕なんかはそれによりデリダの哲学を新しく読んでいることが勉強になるんだけど(『現代思想』、『RATIO』寄稿の論文など。また、これは江川隆男さんがドゥルーズを『死の哲学』として読んでいることとも重なる)、病人の生をどうとらえるかということについて、おそらくは最後まで残る生として小泉さんはゾーエーを念頭においていると思う。ただし、これは金森さんにとってはまんまビオス的生としてとらえられることになるだろうと思う。なぜなら病人は病人として生きているから。小泉さんの方に立てばビオス的生でないものとして切り捨てられがちな病人の生をゾーエー的生としてとらえなおすことで新たな(正確には新しくない。新しくあってはならない。)生(命倫理)の可能性を論じていると言えるし、金森さんの方に立てばそういうゾーエー的生としてとらえること自体が生のランクを落としているように見え、あくまでそれもビオス的生なのだということを主張することもよくわかる。大事なのは二人して同じことを言っているということであり、これを対立とか反論とかのレベルで僕たちが読んではならないということだろう。
金森さんは最近webマガジンenで「ビッグブラザーの自由な末裔」を書いているが、これもまたそういった問題の延長上で読めると思う。