ちょっと関係あるかもしれない

水曜WANTEDを聴く。「戦後」の音楽である1920年代ドイツ、同じく「戦後」の日本とアメリカの合体した(今週の放送の言葉で言えばポストモダンな、先週の放送の言葉で言えば「アリアリな」)音楽、そして一気に抽象化したジャズといった流れ(で合ってるかな?)での進行。

哲学としては1920年代ドイツといえば間違いなくハイデガーの"Sein und Zeit",『存在と時間』が出てくる。簡単に言えば現に存在している(ことを自覚している)ことから存在そのものの意味を問わなければいけないとした基礎存在論の二重性が、アメリカの曲を取り入れながらも結局ドイツっぽくなってしまうその二重性と微妙に重なるような気がした。

また、戦後の日本をモチーフにしたアメリカの音楽(「東京音頭」は反則だ)から抽象化したジャズへの流れはラジオ中でのポストモダン(余分な意味が入りやすい言葉ではあるんだけど)の情報の圧縮は少なくとも二段階あったんじゃないかと思わせてくれた。それは同時代でのミックス(アメリカ人による「東京音頭」)とそれらをさらに抽象化する超時代的なミックス(抽象化したジャズ)。そしてこの放送はそれに対応した情報の解凍もまた少なくとも段階を踏まえなければならないのではないかと考えさせられた。

さらに言えば同時代的なミックスと僕が仮に名づけたものはまさに同時代的、つまり同じ時間を共有しているものとするという点で空間的でもある。また、超時代的と名づけたものは空間に還元できないという点で純粋に時間的である(と思う)。ちなみにこの区別はベルクソンによる空間/時間といった考え方をもとにしているけれど、ベルクソンによれば時刻ではかれる時間というものはそれは空間化(数直線で時間を表したとき、それは「点」になる)した時間であり、それだけで時間を考えては失敗する、みたいなことを考えていた。また、その上で純粋記憶なるものを考え、それを逆円錐モデルで示したりもするんだけど、そのときの圧縮方法には、やっぱり段階を踏まえたものがあるのではないだろうか。難しくてよくわからないけど、空間化はベルクソンの時間および純粋記憶モデルにとって一種の圧縮だと思う。

ベルクソン研究でも有名なジル・ドゥルーズは『千のプラトー』において、それぞれのプラトーに日付を打っている。それはある意味ベルクソンの時間を圧縮した(解凍した?)結果だとも思う。そして偶然の一致と言うか(おそらくは僕の無意識の好みなんだろうけど)、今日の日記で触れた人たち(菊地さん、SIREN、『千のプラトー』)はすべて日付を残したテキスト(ないしゲームのエピソード)を入れ、それを意図的に混ぜている。つまり空間化した上で時間化を行うという、二重の圧縮ないし解凍が見られると思う。そしてそれは同時に空間/時間と圧縮/解凍という二重性の二重性をもって物事はすでに考えられているし、そう考えていかなけれないけないのかもしれない、などとぼんやり考えた。