これは別の本屋での話しだけど

僕が入っているMLの文章に触発され、菊地成孔作品を探しているが、見つからない!『スペインの宇宙食』なんかは本屋の検索システムにはひっかかっていたのに実際には「今日売り切れました」だって、ふざけんな!DCPRGも(以下同文)。

ただ、『憂鬱と官能を教えた学校』は残っていて、それをちょっと立ち読みすると、面白い概念が出ていた。これはかなり音楽的知識を要求する本のようで、そういうところは当然読めないんだけど(というよりはここでエッセイの圧縮もとを見たような気がした)、そこにケージやらミニマリズムの音を表現するときに「強度」ではなく「弱度」という概念を置いてみるとわかりやすい、ということが書かれてあった。

補助概念かもしれないけど、僕にとっては面白かった。強度というと、僕みたいに哲学をなめた(かじってすらいない、ということと馬鹿にしているという意味ではないが中途半端にしか知っていないという意味で)人にとってもすぐにドゥルーズの名をあげることができる。そしてドゥルーズの論はある意味現代音楽の動きとパラレルなところがあることもまた考えていたことではあった(だからこそ僕の先生は『千のプラトー』を読むことを僕に薦めたわけだが。『差異と反復』という題名やリトルネロはまさにそうだ)。ただ、僕にはそれを強度とからめて理解することが難しかった。で、今回の菊地さんの本での「弱度」はドゥルーズと現代音楽をパラレルに読むように、現代音楽的にドゥルーズを理解するときの―もちろんそれはドゥルーズの考え方からすればそれこそ強度を理解するための補助概念として利用することが正しいことなのかもしれない―ヒントになるように読めたのである。

そう言えば檜垣立哉ドゥルーズ』による小伝(NHKブックスの哲学のエッセンスシリーズでは巻末に必ずついている)ではこういったことが書かれていた。

「攻撃的でアグレッシヴなサディズムではないが、サディズムマゾヒズムという二項対立で語られるマゾヒスティックな受動性というよりも、そもそもそうした二項対立の内側にくぐもるような、ある意味ではきわめて苛烈な受苦的な生。おおよそ男性的ではないが、しかし男性性と女性性という相補性をもうち消してしまうような、未分化で残酷な少女性への愛好。ピュアな卵であることと、そうした卵でありつづけることのどうしようもなさ、それらを同時に引き受ける生き方、哲学者の思考とそのひととの共鳴は、ドゥルーズにおいて、とりわけ顕著であるようにみえる」(p117)。

また、ドゥルーズの『記号と事件』を読みながら『フーコー』をかじっていたりもするが、ここで僕の目を引くのは自殺への肯定的な論述である。それも、それが生の一つだと協力に主張しているのだ(『記号と事件』、邦訳p165、p191など)。ドゥルーズは1995年自殺するのだけれども、ここでも自殺というある意味究極の受苦、静謐、弱度という考え方が必要となるようにも思われる(正確には強度/弱度といった枠組みでは判断できない、また、その領域こそがドゥルーズの考えていたことなのだろうけど)。

鉄を作るときに熱や力を加えるように、ある種の弱さ、それは受け入れる強さとでも言うべきものなのかもしれないけど、それが強さ(強度)の理解には必要なのかもしれない。