経験知/値

ニュースとしては前の話になるが、政治家の後藤田正晴さんが亡くなられた。この人については、かつて下で働いていた佐々淳行さんの書いた『わが上司 後藤田正晴―決断するペシミストISBN:4167560097ど、この中に後藤田さんを評して(もちろん世間では切れ者、懐刀とまで呼ばれた人なんだけど)、「アフォーダンスの人」と呼ばれていて、またそれが机上の論理ではない、実際にどうなんだという話を重視する人だと書かれていた。
また少し話は飛ぶけど、『考える人』内で坪内祐三さんが色川武大阿佐田哲也)さんを論じている記事があって、色川が経験知の達人である、ただそれを(まねぶという語源的な意味で)学ぶことは不可能であることを主張している。
一般に経験論というと、人は生まれたとき真っ白(ドラクエの勇者は世界を救う存在であるにもかかわらず最初は弱い!)で、そこから経験して物事を身につけていく、という立場をさすが、上述の二人の話を読んでいると、そもそも経験ができてくるのはどういうことか(なぜ経験値/知がたまるのか)というところまで思いをはせているように思える。経験論とは1から積み重ねていくという考え方であると同時に、その経験そのものをどう身に着けていくのか、そのことを考えさせるものでもあるような気がする。
ドゥルーズの読むヒュームはこの観点が必要なのかもしれない。ヒュームを「ポップ哲学」と呼ぶところにしか目が向いていなかった(そこだけはなんとなくわかった)けど、そんなことを考えさせられた。