最終的に

面白かったし、いろんな話を聞けた。同期で現在博士課程の友人からは現在進行中の企画についての話が聞けたし(以前ここで言及した友人。やっぱりノゲスはチェックされていた)、他のみんなの話からは現在の研究室の状況が面白く聞けた。
その上で僕なりに感じたことは、大きく分けて現在の関心が二極化しているということだ。一つは「生命」というキーワードでくくればいいのか、とにかくその自立的に活動するメカニズムに関心があるということ。もう一つは言葉の意味が伝わるということはどういうことかということに関心があるということ。

僕としては両方とも面白かったが、さらに言えばその中間点に関心がある。言葉をつなぐものとしての時間をたえるために編み出された「信頼」とでもいうべきもの。信じたくてたまらなかったというべきか、今の信じるに込められた意味以前の信じる(それは宗教と贈与を微妙に切り分ける)があるんじゃないかと思った。それはハイデガーが死へ向かうものとしての存在、そしてそれを隠して頽落する存在としての時間ではない時間だと思う(読みかけにしてたレヴィナスの「神・死・時間」読みなおそ)。

以前ほど絶妙な会話がなかった(ように感じた)のは僕のただでさえ少ない学力が転がり落ちているからに他ならないが、その相手の好きそうなところを「ふる」ことと、それでも「こいつは僕の行っていることがわかんなくっても面白いことを返してくれる」という、ある種の快感をともなう信頼が必要であるということはわかったような気がする。それは相手のことを知ること、知ろうとすること、それでいてある点では知ることができないことを認めることだと思う。