『中島らも烈伝』鈴木創士、河出書房新社、2005。ISBN:430901688X。

鈴木さんはバディウドゥルーズからジャべス、アルトーまでといった、フランス文学、哲学を訳されている人である。なかなか自分のことを文章にする人ではなかったように思う。一方、中島らもさんは僕が高校生のころから少しずつ読んでいた作家であり(「らもチチの魔界ツアーズ」も聞いてた)、彼の書くエッセイや小説の中の「エス」、「鈴木」が話を総合していくに鈴木創士さんのことではないかということは(両方を読んでいたこともあり)これまた少しずつ感づいてはいた(ふらっと立ち寄ったサイトでそのことを指摘したこともある)。どちらかというとドイツ哲学的なネチネチ、悪く言えばうじうじしているような思考方法に近い自分が(教養課程ではドイツ語をとっていたし、今でも哲学者と聞けばカントとかヘーゲルのほうが出てくるし)なぜ大学の講座ではフランス哲学よりのものを学んだのかという理由を考えた場合、僕はこの二人の影響を抜きにして考えることができない(ドゥルーズバロウズを論じ始めてもそれなりにたじろがずにいられたのはその典型だ)。
で、この本自体は三つの点において非常に形而上学的だと思う。
一つは彼らの話す内容(すなわち彼らの関心)がそもそも形而上学的であるということがある。そのことを象徴しているかのようで印象的なのはお互いが電話できっちりとドゥンス・スコトゥスやらミシェル・フーコーについて話しあうというシーンだった。互いの形而上学的な志向、そしてそれを成り立たせる会話の信頼。これは知識に加え、互いが「訳のわからないことだけれど、こいつの言うことは面白い」というものがなければ成り立たない。僕自身、こういう会話が成り立ったことが数度あるだけにそのことはよくわかる(前にも書いたかもしれないけれど、澁澤龍彦バタイユといった辺りを大勢の呑み会の席で二人だけで話し合ったというかなりシュールなシチュエーションの経験が僕にはある。その後その友人が別の人(女性)に「何話していたの」と聞かれ、すぐに「哲学的な話を少々」と答えていたのには笑った。明らかに自分の嗜好について語っていただけだというほうが正確なのに)。
二つめはエス=鈴木さんの目を通して語られるもう一つの『バンド・オブ・ザ・ナイト』ISBN:4062739860(バンドオブザナイトを読んだ人であればこの本自体が見事なバンド・オブ・ザ・ナイト論になっていることに気づくと思う)。よく読むと「ガド君はこの世には向いていない人だった」と言ったのは中島らもさんのエッセイや小説ではらもさん自身が言ったように読めるが、この本では鈴木さんが言ったように読める。また、先に書いたフーコーの話、これは中島らもさんが本上まなみさんの『ほんじょの虫干。ISBN:4101028214れられていた『異常者たち』ISBN:4480790454思われるが、この辺りの時間というのはちょっとよくわからない。それは強烈な対躁鬱の薬をやめて目が見えるようになってきて読みたくなった本として本上まなみさんとフーコーの本が挙げられていることと、『異常者たち』を読んだのが新たなる薬(言わずと知れた大麻ですけどね)のせいで(せいで、って書くとまるで薬が悪いみたいな書き方だが、あくまでらもさんがどんな思想を持っていたとしても、大麻を所持、使用することはルールに反しているというルールがあった)閉じ込められた中で読んだ本であるからだ。正確には『異人伝』ISBN:4584187932(また「異」なっている)でも書いているように、血圧降下剤という薬が関与してもいるのだけれども、それはともかくとしてある意味で薬漬けであることによって(だが、これはらもさんだけのことだろうか?高齢化社会とはある意味においては薬化社会でもある。蔓延するタブレット、顆粒…)、時系列が混乱している。しかし、その中でどうもある出来事があったということだけは間違いがないようだ。そしてそのある出来事は時間、主語が混線しているからこそかえってそのリアリティ(ドゥルーズ風に言えばサンギュラリテの方が近いか)がひきたっている。確かにらもさんは『水に似た感情』ISBN:4087471926、主語をばらばらにして書くといった小説手法を登場人物に語らせてはいるが、出来事を、そしてその出来事があったということを、出来事とは何かというある種存在論的な、もっといえば哲学的なことを哲学の本では残念ながら避けることのできない晦渋さを避けて見事に描写しているのがらもさんの小説であり、それを否定してしまうのではなくむしろ見事にサポートするようにひきたたせているのがこの本である(このこともらもさんの小説には出ている。詩と哲学が真理に対してどういう態度をとるのかという問題)。
最後は、そもそもこの本全体が鈴木さんとらもさんの友情を、しかし情(=鈴木さんの言うセンチメンタリズム)に流されすぎることなく書いているという点にある。そもそも友情の問題はプラトンからアリストテレス、最近ではジャック・デリダが『友愛のポリティクス』ISBN:4622070235(上)、ISBN:4622070243(下)を書いているが、哲学的な問題であり続けた。それは今僕の言葉で言うならば近づいていけば近づくほどにその人のことがよくわかる、逆に言えばその人のことをよく知る(知るということはそもそも客観的だ)ためにはその人に近づかなければならない(その人に近づくことは主観的判断を免れなくさせる)という問題を提起しているからにほかならないからだと思う。鈴木さんも訳したドゥルーズは一緒に『資本主義と分裂症』を書いたフェリックス・ガタリとの経験をこう書いている。「それから、フェリックス・ガタリとの出会いがあって、ふたりがどんなふうに理解しあい、たがいに補い合い、たがいに相手のなかに入り込んで脱人格化をとげるのか、それを確かめ、さらに相手を刺激しながら個別性になっていくという体験があった。」(ジル・ドゥルーズ『記号と事件』、宮林寛訳、河出書房新社、1996、p16。)主観と客観の統一、というとそれこそプラトン的な形而上学だとして反発する人がいるかもしれないけれど、そうではなく、どう考えても無理だと思われるようなことを彼らの友情が成し遂げているということ、そして類まれなる二人の文章力によって完全かどうかはわからないけれど僕たちにもそれが読めるということ、このことを形而上学的だといわずして何というべきだろうか、借り物の安っぽい言葉かもしれないけれど、僕にはその言葉を使うことしかできない。
わりあい短い本で立ち読みもできる。しかし僕は買った。そもそも僕は立ち読みですむような本は買わない。つまり、この本は僕にとって何回か読み返すことになる本になるだろう。それこそ中島らもさんの小説のように。