記号論は非主体的か?

グッドマンの本を読んでいると(で話していると)いつも出てくるのが主体とか経験とかないの?っていう話。記号論がどうしても決定論的に見えてしまうみたい。記号に多様な意味があるということ、受け取る側もいろんな人がいることを考えるとそうでもないのかな、とか思ったりしているんだけど(いい加減な性格だからかもしれないが)、そもそも主体とか経験とかをフルに考えたカントがもとになっているのが面白いとは思う("Languages of Art"によればグッドマンは自分の記号論的先達としてパース、モリス、ランガー、カッシーラーを挙げているのだけれども、このうちパースは、少なくとも哲学的にはカント研究から出発しているし、カッシーラーは新カント派であるマールブルク学派出身だし)。他にも例えばイギリス経験論の最後になると知識を「それあんたの思い込み」と切って捨てる(大幅に誇張あり)ヒュームみたいな人が出てくるわけだし。