『現代思想』を読みながら(「他者論が全体化するということ」2)

高橋哲哉さんの『デリダ』(講談社現代思想冒険者シリーズ。ISBNはペーパーバック版)
ISBN:406274354X
デリダレヴィナスに「すべての他者はまったき他者だ」の徹底を求める、と書いているところがある(ハードカバー版、p240)。僕はそれは正しいことだとも思うが、それでも気になることは、レヴィナスデリダの違いはそれだけにとどまらないのではないか、ということだ。例えばレヴィナスは『全体性と無限』の中ではあくまでも「全体」に回収されない「他者」、『暴力と聖性』では「みんな」の中に含まれない「他者」を見ている。ここがレヴィナスの他者論の大事なところで、(つまり「他者」をみんな(全体性)に含めようとすることへの抵抗)まったく正しいと思うのだが、デリダの関心は他者が入ってくる/出て行くことに関心を向けていたのではないかと思うわけなのだ。『歓待について』(『フランス現代思想を読む』抄録分)についても、「「どんな人でも」迎え入れなければならない」と読める部分と「どんな人でも「迎え入れなければならない」」と読める部分との両方の部分があるような気がする。

他者として出て行く、これは何よりも死者を弔うことだと思う。内田樹さんの『他者と死者』、『死と身体』ではまさにこのことが論じられているが(使い回sh(以下ry)?)、レヴィナスは死者を生きているものとして、生きている人がまるでその人が言っていたというようにして扱うことを拒否したということが論じられている(もっとも、ハイデガーが世間、ひと(das Mann)を論じていた、つまりこどもが「みんなももってるんだからあれかって」というような論法について論じていたことを考えるとなるほどと思うのだが)。そこで内田さんはカミュの『異邦人』を引いているのだが、そこでの主人公の振る舞いと、デリダがとった行動とは逆だ。片方は弔うことを拒否し、片方は弔辞集が出るくらい弔文を書いている。その題名、『そのつど唯一の、世界の終わり』("Chaque fois unique,la fin du monde".邦訳は出ていないのですが、『現代思想』の特集ではこの題名での紹介がなされていたので、それを使う)に示されているように(これもハイデガーが「世界内存在」なんていってたことを考えればわかるような気もする)、その人がいた世界は終わったものとして、ちゃちな言い方をすれば決して「死んだ人はこういっていたから」というような人のせいにしないような仕方で、レヴィナスの「すべての他者は〜」は徹底化されるべきではないのだろうか。正しく「さよなら(アデュー)」というために。