他者論が全体化するということ。

実は本屋で斉藤環さんがひきこもりから殺人事件になってしまったという事件に対する分析を読んでいたのだけれど、そこで「わかる、わかったということにして他人と接するのではなく、むしろわからないということをわかったうえで他人と接しなければいけないのではないか」というような趣旨の主張を読む。もちろん斉藤環さんは精神分析医であり、一方ではわからなければいけない立場の人ではあるんだけれど、そうではなく(もちろんそれは腫れ物を触るように扱うということでもなく)、わかったつもりになって接するのはどうかということを書いていたのだと思う。一方で、『M2 われらの時代に』では宮台真司さんが「みんな仲良し」と考えていると他者への想像力が失われると論じている。みんながみんな他者に対する考えを話し始めていると感じる。
ところで、このテーマについて有名な論者であるエマニュエル・レヴィナスは「みんな」と言った瞬間、それは他者を切り捨てているといった趣旨のことを述べている(『暴力と聖性』だったかな)。それだけに<みんな>が他者について話し始めているのを見ると、これっていいことなのか、それとも考えないといけなくなっていることなのかということがわからなくなってくる。
もちろん、ある意味ではいいことには違いない。斎藤さん、宮台さんの述べていることはその通りだと思う。このことについて僕がとやかく言うことは(能力的に)できない。けれども、それをみんなが言っているということについて、何か変な感じがしてしまう。難しいけど。
レヴィナスはこのことをえんえん論じた『全体性と無限』を書いたのだけれども、それは他者が自分からはみ出ているものということ、つまり<自分>からはじまってしまうものだということを含んでいた。それが「ある意味でレヴィナス形而上学はそれがこの先き問いにかけようとしている超越的現象学を前提にしている」とデリダに言われ(「暴力と形而上学」)、「存在とは別の仕方で」を考えるようになる。レヴィナスは『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』で「身代わり」という概念を提案するのだけれど、果たしてこれが僕の感じた変な感じに対する回答となるのかどうかということは(難しすぎて)わからない。
ただ、身代わりについて論じているところまで読んで、僕はようやくレヴィナスが<来た>、そう感じたこともたしかだ(その意味でやっぱり長々とした文章につきあっていてよかったと思ったが)。身代わりと聞くと感動するエピソードが多いが、それは身代わりが特別な事態であるからではなく、いや、事態で<ある>ことすら(ある/ないという次元で)ない(ということにレヴィナスの言い方だとなる)。
そう考えると、さっき読んだ『自殺されちゃった僕』のすくいのなさは「自殺という、本人にのみ原因がある」(やや語弊含んでいる言い方だと思うけど)行為によって残された、つまり自分が「身代わり」ということをいやおうなく自覚させられたことにあるのかもしれない。そしてそれは他者論的には、もしかしたらすくえないというかたちでしか示せないんじゃないだろうか。著者の、鶴見さんとのエピソードを<感情的に>しか批判できず、全体としては認めているというのは、そういうことではないだろうか。これはどっちが悪いという考え方よりも、そこにある考え方の違いがまざまざとあるのではないか。
あんまり暗い話題を暗く書くのもどうかと思うけど(『自殺論』などは極力抑え目に書かれてるし)、やっぱり気になったので。