シンポジウムに行ってみる

俳句に関するシンポジウムの案内が来ていたので行ってみる。無季、自由律俳句は「ヒロシです」のネタと互換性がある、という仮説を思いつく。

例:
ヒロシです。咳をしても一人です。」(自由律俳句→ヒロシネタ)
「引きこもるほどの金もなし」(ヒロシネタ→自由律俳句風アレンジ)
何かいける気がする。

もう一つは俳句が強烈な制限を持っていること、それでいて自由であることに関してパネリストの人が話しているのを聞いて。後者に関して言えば、米国では「Hitch-Haiku」という題名をつけたり、そもそも俳諧という言葉そのものが彷徨いを連想させる音をしていることから、何となくわかっていたし、前者についても、五・七・五/季語なんていう、制限の強い(韻を踏むとかの必要はないけれど)形式であるのもわかっていた。なぜ動かないものと動くものとが同居しあっているのか(そしてその可能性に俳句が開かれているということ)、そういったことがシンポジウムのパネリストたちの一致した意見であったと思う。僕自身は正岡子規で一番好きな歌は俳句ではなく、短歌である

「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとどかざりけり」

という歌だったりするのだけれども、ギリギリの定点観測ならではの動きの描写だと思う。五・七・五という形式も定点観測という意味ではギリギリ一歩手前までいっている感じがする。昔、電話相談室か何かで「何で俳句は五・七・五なんですか」という質問があったときに、数学者の秋山仁さんが「詳しい(歴史的なこと)はわからないけれども、五も七も素数、それ以上では割り切れない数ということと関係があるんじゃないのかな」というように答えていたことを思い出す。言いたいことはすごくわかる。それは定点観測上の足場として崩れない(=割り切れない)ものにたいするイメージなのかもしれない(ちなみに、五は最小の素数ではない。まだ素数には三、そして二がある。二であり、三であるものとして肯定(yes,oui,はい)を考えてしまったりもしたけれど、やっぱり違うだろう。一は素数ではないけれど、素数でないがゆえに「う」の考え方には疑問を持ったりもしたけれど、これもまた妄想の範囲を出るものではないだろう)。

ジル・ドゥルーズの「不動の旅」に似たものを感じている(『無人島』所収、「ノマド的思考」より)。