ウェーバー

何とか読む。二章は歴史小説を読むような面白さだった。ただ違うのはその一貫性がプロットのそれではなく論証のそれであるということ、もう一つはしばしば話の腰を折る、ウザイくらいの注が(それに文献情報としても有益だと思うし、論旨展開がありうる、そして実際にあった反論に答える形で解説されているために)必要性のあるものとして(巻末につける注とはまた違う)重要性があるのだということがわかったことか。

『プロ倫』を下敷きにして再読。こうするとわかりやすい。オール抽象語の社会学がなぜ難しいか(例えば―これは実際には大学院在籍の友人の修論の1テーマにあたるわけだが―フーコーの『知の考古学』の読解が難解であるということ。もっともこれは翻やk(以下略))のかがわかったような気がする。っていうか、ウェーバーが「理念型」で説明していることとよく似ているんじゃないか。社会学に関しては一般化した理論を作って個別の事例にあてはめようとすることはできないというやつ。少なくともウェーバーはそれを前提にこの理論的側面の強い論文を書かなければいけなかったわけで、それは抽象語オンリーだからわかりやすい(=すべての事例を網羅的に知ることができる)わけがない。再読してそれはわかった(と思う)。