『他者と死者』内田樹著、海鳥社、2004。isbn:4874154980

今日買ってきて読む。いろいろな感想を持つが、その中で二点だけを挙げておこうと思う。一つはレヴィナス色が強かった(と僕が思った)ことについて。一応はレヴィナスを何冊か読んでいたので、この本を買ったのはどちらかというとラカンのことが知りたかった、というのがあった。でも、面白いことに、レヴィナスを読んでいるからこそ、この本のレヴィナスについて論じている部分が印象に残り、相対的にラカンがわかったかというとそうではないという感じになってしまった(レヴィナスわかってんの、って聞かれるとそれもあやしくはあるのだけれども)。レヴィナス、特に『存在の彼方へ合田正人訳、講談社学術文庫isbn:4061593838感じたものと同種の感情を味わった。
うまくは言えないのだけれども、僕にとってこの種の感情は恋愛もの、しかも時間を経由するものに関して抱く感情とよく似ている(一応僕が念頭においているものを挙げておく。村山由佳『もう一度デジャ・ヴ』isbn:4087485153、TVドラマ『ifもしも』(これはやっぱり花火の回が有名なんだけど)の「別れましょう/結婚しよう」の回、key of life『love story〜時をこえて今も〜』など)。で、なんでこういう系統のものに感動するのか、実は自分でもよくわかっていなかったんだけど、今回この本を読んで、それはレヴィナスが他者について述べていること、そして内田さんがそこからとりだしている「前未来形」の語法による未来からの自分、存在することが時間と密接にかかわっているとするならばまさに存在を引き受けたものとしての自分といったものにとても近いものなのかもしれないと思った(こういう風に書くと存在論的に他者/死者を語ることになってしまうのだろうか?)。
もう一つ感じたことはそのテキスト構成にある。レヴィナスと内田さんの本にはある共通点がある。それはいくつかのテキスト(つまり、まとまりのある文章単位)を集めて一冊の本にするという形だ(『実存から実存者へ』はイリヤとして一部が採用されているし、『存在の彼方へ』もそれぞれの初出が書かれている)。それは普通の主著と呼ばれるもの、つまり一気に書き下ろしたり、もしくは「論文集」として出版するのとは違う。はっきりいってしまえば、この内田−レヴィナス方式は重複が避けられず、とらえようによっては無駄が多くなってしまう(ここではよく論文集の頭に「重複があるかもしれないが…」という枕詞があるけど、マジにそうなってしまっている)。しかし、考え方を変えれば複雑なものを複雑なままにみせるという方向として、これ以上のものはないのではないかと思う。ドゥルーズとかデリダとかも確かに最初から最後まで複雑なんだけれども、彼らは複雑さを動かしている。それは問題を解くという力強さではあるのだけれども、問題を複雑なもとのままにしておき(大体問題というのは変わらずに複雑なままってのが多いわけだし)、繰り返し繰り返しそこに立ち返って考え直す、という効果を(意図的にか、もしくはただ単に編集が面倒だったかはわからないけれど)及ぼしていると感じた。