オチは死んだ、俺たちが殺したのだ

元ネタはずいぶん前からあって、読んでて面白かったのにいまさら書くのもどうかと思うけど(はっきりいって以下独り言に近いので上記記事は参考ということで。アンテナからいける中のどこかにあります)。
ここの表題を見てまっさきに思いついたのは僕の場合はモンティ・パイソンだった。まさに彼らは70年代に『空飛ぶモンティ・パイソン』をつくり、はっきりそこでオチ(パンチライン)の拒否をしたからだ。そのかわり彼らが取り入れたのが「意識の流れ」(あるいはそれを逆手に取った番組構成)だったというわけだ。今はそれさえも古典的であり、流れを複雑化することで笑いを取るか、逆にあえてオチを強化する方向に行っているような気がする。個人的には前者はそれこそ漫才に、後者は映画に受け継がれている印象を受ける。
M-1をみててもわかるけど、決してオチはそれほど重要ではない。それよりはいかに流れをいじるか(今回はあるある探検隊や武勇伝のような流れを固定することでネタを振り回していくのが少なかったと思う)に重きが置かれているように思う。チャンピオンになったチュートリアルのボケもよく聞いていると「お前、あんときは流したけどどっちからも開けるってすごいで」とか、「どんな芸人魂や」とか、漫才という舞台をくりこんでのボケがあるし、ひたすらボケ倒す笑い飯は新しい流れそのものを作ったともいえるし。
映画について言うと個人的にはちょっと昔だけど「ドッグウィル」なんかが比較的設定とオチとを両立させているような気がする。

しかしパイソンズがオチに変えて採用した「意識の流れ」の源流はジェイムズ兄弟だったりするわけで、そう考えるとこれは近代的にしごくまっとうな流れであるともいえる。そしてしごくまっとうな流れの帰結として流れが読めてしまう、つまり面白くなくなってしまうということもまた言える。

パオロ・マッツアリーノさんが『つっこみ力』asin:4480063471というのを書いてるけど、ツッコミから見た場合はこの本のとおり何よりも現実がボケている(このへんの認識は日本原論的爆笑問題の問題意識とも重なる)からそれにツッコむという方向と、古典的なボケに新たにツッコミなおす(あるいはボケをかぶせる)ことが必要なのかもしれない。ヒューム(余談ながらヒュームのはてなキーワードも結構気に入っている)は最高のボケをかましたと僕は思うのだが、カントのツッコミはある意味であまかった。また、ルクールの『科学哲学』に従えばグッドマンはヒュームのボケにボケをかぶせたとも言えるわけだし。

同時に現実をツッコミとみなしてボケることも必要になるだろう(けど、現実をツッコミ、つまり自分のボケに対する投影と見るのはよほど自意識過剰か、「天然」でないと無理だろう…って、これニーチェそのものじゃないか)。

またルクールの科学哲学に代表されるフランス科学哲学にはいわば漫才の台本をリメイクする力があるような気がするが、リメイクという方向もまたひとつの方向ではあるだろう。台本をまったく書き換えてしまうこと(友人がこの分野の研究をしているが(さらにいえばルクールを代表としたことにそいつが決して満足しないこともわかっているわけだが(とりあえず日本語の文章がこれくらいしかないということで許してほしい))そいつの文章を読むといつもデカルト以来の哲学史のアナザーヒストリーを読んでいる気になるというのがあるからか?もしくはモンティ・パイソンに影響を受けたアナザーヒストリー作成の天才が主幹をしているDCPRGが『構造と力』を出しているからか?)。

僕はどっちなんだろう?ツッコミだと自分では思ってるんだけど、空回りするほうかもしれない。